青春シンコペーション
第6章 誘拐犯はお父さん!?(3)
「それはいったいどういうことですか?」
ハンスが訊いた。
「ああ。これはとんだ失礼を致しました。貴方がバウアー先生ですか?」
「はい。僕がバウアーです。確かに彼女は僕がお預かりしています」
「それは大変ご迷惑をお掛けしました。でも、今日限りで娘は連れ帰りますので……。これはほんの気持ちですが、迷惑料と思ってお納めください」
有住が内ポケットから封筒を取り出して渡そうとした。
「迷惑? 僕には意味がわかりませんね」
ハンスはそれを拒否した。
「食費と宿泊代ですよ。別に特別な意味はありません」
「理事長から上手く伝わっていなかったようですね。僕は黄金の握手は嫌いです」
「そんなオーバーな……。私はただ娘が可愛いだけですよ。嫁入り前の大事な体だ。若い男性達が集うような場所に出入りしていたなどと妙な噂でも立つと困りますのでね」
「ここは風俗営業の店ではありませんよ、有住さん」
ハンスが反論した。
「しかし、バウアー先生、貴方とて、正式に結婚はしていらっしゃらない。作家の女性と同棲なさっているそうじゃありませんか。しかも、退学させられた元音大生の男子まで同居させていると聞きました。そんなところに娘を置く訳には行きませんでしょう」
「お父様! 失礼なことを言わないで! ハンス先生はそんな方ではありません」
彩香が訂正する。
「そうかもしれないが……。ここにいるのは彼だけではないだろう? 何しろ今時の若者は分別がないからな。ましてやその学生は良からぬ者達との交際もあったそうじゃないか」
(それって僕のこと……?)
丁度お茶を運んで来た井倉の耳に、そんな心無い言葉が響いた。
「僕だって、分別くらいあります!」
思わずそう言った。
「ふん。どうだか……。君は大学でも娘の周りをうろついていたと言うじゃないか。どうせろくでもない目的でそうしていたのだろう」
「僕は……そんな不埒なこと……」
その手が震える。
「井倉君……」
そんな井倉を庇うようにうしろへ下がらせるハンス。
それから、状況のわからないフリードリッヒに通訳していた黒木が代弁するように言った。
「有住さん、今は私もこちらのお宅に世話になっている身です。ハンス先生同様、若い者達の指導をしております。中でもこの井倉は馬鹿が付くほどの真面目な若者です。間違いが起きるなんてことは有り得ない。彩香君も自分の将来を考えて、ハンス先生のお宅にやって来たのだと思います。そして、現にピアニストになれるよう精進しておるのです」
「ピアニストだって? そんな者になってどうすると言うんだ? 娘はこれから見合いをして、将来有望な若者と結婚させる。それがこの子の幸せに通じる。親なら当然の選択だと思いますがね」
黒木達を見下すような目で父親が言った。
「お父様! わたしは結婚なんかしません」
彩香が宣言した。
「何を言っているんだ。それがおまえにとっても一番いいことなんだ。何しろ浮屋(うきや)君は、裏山総理の甥子さんだ。しかも、彼の父親が経営する企業グループは強大だ。ぜひともここで絆を深めておきたい」
「結局、自分の利益を考えてのことでしょう」
ハンスが皮肉っぽく笑う。
「私個人の利益ではない。有住家にとってのことだ。我が有住家の繁栄は、娘の幸せに直結する。違うかね?」
「それは貴方の理論だ」
ハンスが言い返す。
「若造に何がわかる?」
そう言う有住に対して黒木が意見を差しはさんだ。
「有住さん、あなたは娘さんの将来に理解があるのだと思っていましたが……。芸術にも精通しておられるからこそ、薬島音大をはじめ、数多くの学校や芸術団体への寄付を行っている。その娘さんだからこそ、音楽の才能があり、貴方も応援してらっしゃるのだとばかり思っていました」
「芸術だって? くだらん。そんなものは所詮は遊びに過ぎん。娘にピアノを習わせたのは、単なる一般教養に過ぎない。音大に行きたければそうすればいいし、コンクールに出たければそれも良し。だが、それを職業にすることは許さん。音楽など所詮は道楽に過ぎんのだからな」
「音楽が道楽ですって?」
黒木に通訳してもらっていたフリードリッヒが大声を上げた。
「彩香さんには確かに才能があります。ショパンコンクール優勝のこの私が言うのだから間違いない。彼女は音楽を続けるべきだ!」
「ショパンだろうとベートーヴェンだろうと所詮は遊びだろうが。私は絶対に反対だ。さあ、帰るぞ。一緒に来なさい、彩香」
父が娘の手を掴む。
「いやです!」
彼女は拒否した。
「ピアニストになるのは、私の夢だったのよ! ずっと小さい頃からの夢だったの!」
「夢……?」
ハンスが呟く。
――作家になるのはずっと子どもの頃からの夢だったの!
ハンスは、もめている親子をじっと見つめていたが、いきなり父親の手首を強く掴んだ。
「何をする?」
思わず娘の手を放してハンスを睨みつけた。が、彼は冷たく言った。
「出てけよ」
「何だと?」
「ここはあんたのような恥知らずの男が出入りする場所じゃない。ここは夢を抱く者が集まる神聖な場所だ。出てけ!」
ハンスは相手の身体をぐいぐいと押した。
「貴様……」
「彼女は大切な僕の生徒だ」
「ハンス先生……」
彩香が驚いてその顔を見つめる。
「君、その手を放したまえ! 警察を呼ぶぞ」
「警察だろうと何だろうと好きに呼ぶがいいさ。けど、そんなことをすれば後悔することになりますよ」
「それはこちらの台詞だよ、君。この私を敵に回すということがどういうことなのかよくわかっていないようだからね」
「構いません。とにかく今はお帰りください。彼女は帰りたくないと言っているんだ」
ハンスが無理に追い出そうとする。
「彩香!」
父親が呼んだ。しかし、彼女は一歩退き、そこにいた井倉とぶつかった。
「彩香さん……」
微かに彼女の睫毛が震えている。そんな彩香を見るのは初めてだった。
(抱きしめたい……。そして、言いたい。君を守るのは僕だって……けど……)
井倉には勇気がなかった。偉大な有住産業グループを敵に回すなど……。
(ハンス先生はどうして……)
彼の言うことは正当だ。しかし、この先どんな波乱が待ち構えているかわからないのだ。それを考えると恐ろしかった。
「有住さん、貴方には失望しました。ハンス先生の言う通りです。お帰りください」
黒木が言った。
「教授、いや、もう教授ではありませんでしたな。しかし、貴方までこんな若造に丸めこまれて、愚かな選択をなさるとは……心外でしたよ」
途中から通訳がなくなってしまったので、会話に入れないフリードリッヒがぎりぎりと歯噛みする。その足元で2匹の猫が嵐を吹いた。
「玄関までお送りしましょうか?」
ハンスが言った。
「いや、結構だ」
有住は立腹し、足音高く玄関へ向かった。
「いずれまた来ます。彩香、それまでに荷物をまとめておきなさい」
そう言うと彼は出て行った。
入れ替わりにリビングへやって来た美樹が訊いた。
「随分騒がしかったけど、何かあったの?」
「それが……」
井倉がおろおろしながら言った。
「すべてわたしの責任ですわ」
彩香が俯く。
「父が皆さんに失礼な発言をしましたこと、わたしから深くお詫び致します」
「いいえ。それは彩香さんの責任ではありません」
ハンスが否定した。
「そうですよ。君と父親とは違うんだ。気にすることはない」
黒木もそう言って励ます。
「私、いつでもあなたの味方です」
フリードリッヒもその手を取って強く握った。
「僕も……」
井倉も遅ればせながら続けた。
「彩香さんのためならどんなことだってします。だから……」
「それにしても何て男だ! この間はこの私に娘のことは頼む。必ずコンクールで優勝させて欲しいなんて言って札束を積んでおきながら……。何でもかんでも金で解決できると思ってやがる。あれが奴の本性だったのか! まったく人間として最低のカスだな」
フリードリッヒが憤慨して叫んだ。
「ほんとに申し訳ございません」
彩香は再び頭を下げると、逃げるように階段を上って行った。
「あ! 彩香さん!」
井倉が呼び止めた。が、彼女は振り向かない。その間にハンスは美樹に状況を説明し、黒木はフリードリッヒを窘めた。
「ソーリー。申し訳ない。私としたことが……」
フリードリッヒがしおらしく頷いた。
「わかった。わたしから彼女を説得してみる。ここを出て行かなくてもいいんだってこと、わかってもらわないとね」
そう言うと美樹は彼女のあとを追って行った。
彼女は彩香の部屋のドアをノックした。返事はない。
「彩香さん? わたしよ」
数秒の沈黙の後、ドアが開いた。想像通り、彩香は着替えを箱に詰めていた。
「駄目よ。ここを出て行くなんて……」
美樹が言った。
「でも……。このままじゃ、皆さんにご迷惑を掛けてしまいますわ。父は頑固なの。一度言い出したら誰の言うことも聞かないのよ」
「だからといって、あなたが犠牲になる必要はないでしょう? ハンスや黒木先生だってそう思っているんじゃない?」
――彼女は僕の大切な生徒だ!
「そうね。そうかもしれない……」
「だから、ね? あなたは何処にも行かなくていいのよ。結婚はとても大事なことですもの。人任せにしては駄目よ。でないと、あとで後悔するから……」
美樹はそう言うと少し目を細めて遠くを見た。
「でも、美樹さんは……ハンス先生と婚約なさっているんじゃ……?」
「いいえ。彼とは何もないわ。ううん。ハンスのことは好き。でも、結婚は考えてないの」
その言葉に彩香は意外そうな顔をした。
「だって、ハンス先生は……」
「ハンスはその気よ。でも……彼は子どもみたいなのよ。そんな彼の世話をするのは楽しいわ。けど、夫婦になるのとは違う。そんな気がするの。少なくとも今はね」
開け放たれた窓から潮風が流れ込み、レースのカーテンを揺らした。
遠くで鳴る汽笛……。
壁に掛けられた森の風景画。
「……結婚には一度失敗してるから、臆病になってるのかな?」
自嘲するような笑みを浮かべて美樹が言った。
「それって?」
彩香が驚いてその顔を見つめる。
「そう。バツイチなんだ、わたし。浅はかだったのよ。だから、これから結婚するあなたには間違った選択をして欲しくないの。生涯の伴侶となる人は慎重に選ばなくちゃね。自分の気持ちに正直に……」
「自分の気持ちに……?」
「そうよ。心に納得がいくまで考えてみて……。必要があれば、ずっとここにいていいのよ。わたしもハンスも、きっと同じ気持ちだと思うから……」
「……ありがとう、美樹さん」
二人は互いに見つめ合い、それから微笑して握手した。
階下ではまだハンス達が話し合っていた。
「そう。彼女の貞操の危機は僕達の手で守ってあげるべきです!」
ハンスが言った。
「貞操とは?」
フリードリヒに、黒木が通訳する。井倉は顔を赤らめて頷いた。
「でも、先生、その言い方は少し過激過ぎるのでは……」
「何を言ってるんですか? 井倉君。彼女が好きでもない男と結婚させられてしまってもいいんですか?」
「そ、それは……よくありません」
「そうでしょう。僕は断固として反対です」
ハンスの言葉にフリードリッヒも賛同した。
「当然だ! 私も彼女の貞操を守る方に賛成だ!」
「そう。彼女は音楽の道に進むべきだ。本人もそう望んでいる」
黒木も同意した。
「では、全員一致の意見だということで……」
ハンスが言い掛けた時、来客があった。
「何だよ、この忙しい時に……」
ハンスが玄関に行く。客はルドルフだった。
「ハンス。仕事だ。早く来い!」
「駄目だよ。午後はレッスンの予定が詰まってる」
「認められんな」
彼はにべもなく言った。
「僕にとってはこっちの仕事だって大事なんだよ」
「優先順位を考えろ!」
「いつも突然過ぎる。そっちこそ予定表くらい出したらどう?」
「そういう仕事だということははじめからわかっているだろう?」
「うー」
ハンスは唸ったが、ルドルフは意に介さない。
「5分で支度しろ! いいな?」
ハンスがちらと黒木の方を向く。
「心配ありません。レッスンは私が引き受けましょう。まだ予備審査ということで十分でしょうからな」
「すみません。それじゃあ、お願いします」
そう言うとハンスは階段を駆け上がると急いで支度をし、兄と一緒に出て行った。
呆気に取られて見ているフリードリッヒに、黒木が言う。
「彼は急用ができたそうだ」
(急用? 確かにそうかもしれないけど……)
井倉は心の中で思った。
(前にもあった。けど、どういうことなんだろう?)
それから間もなく、フリードリッヒはホテルに帰り、残った4人で昼食を食べた。
それから、午後のレッスンは黒木が滞りなくこなし、井倉がそれをサポートした。そして4時半過ぎ、ハンスが唐突に戻って来た。
「先生、今日は早かったんですね。新しいタオルお使いになりますか?」
井倉の言葉に彼は慌てて首を振ると言った。
「いらない。シャワーを浴びて来るから……」
「わかりました」
階段を駆け上がるハンス。少し前屈みの姿勢で、何かを庇っているようにも見えた。
(どうしたんだろう? いつもと雰囲気が違う)
髪が僅かに乱れていた。そして、一瞬だけシャツに反射した光。
(あれは……血……? まさか、どこか怪我でもされたんじゃ……)
井倉は心配になってあとを追った。が、彼はもう浴室で水音を立てていた。
(気のせい?)
階下から黒木が呼んだ。
「井倉? ツェルニーの40番、余分になかったかな?」
「あ、はい。1冊あります。すぐにお持ちします」
4時50分。ハンスが階下に降りて来た。服を着替え、いつもの雰囲気に戻っている。
「井倉君、悪いけどサンドイッチか何かあるかな? お昼食べ損ねちゃったんだ」
「はい。クロワッサンにハムでも挟んだ物ならすぐに作れます」
「それじゃ、お願い。5時に女の子が来るからね」
ハンスは自分も台所に行くと、オレンジジュースを飲み、井倉が渡したクロワッサンを頬張った。
ドアチャイムが鳴ったのは2分前。
ドアを開けると、癖っ毛の少女が一人で立っていた。
「あれ? 君一人? リンダは一緒じゃないの?」
ハンスが訊いた。
「ハロー! あんたがハンス? わたしは知香よ。よろしく。リンダは来なくていいってわたしが言ったの」
「よろしく、知香。けど、あそこのマンションからだとかなりあるでしょう? 途中までバスに乗って来たですか?」
「ううん。歩いて来たよ。丈夫な足があるんだもん。ぜいたくできないよ」
知香は幼い割にはっきりとした物言いをする子どもだった。
「とにかく、中へどうぞ。暑かったでしょう? レッスンの前にジュースでも飲む?」
「いいよ。時間がもったいないし、ジュースだってただじゃないでしょ?」
「ただでいいんだよ。遠慮しないで」
「へえ。驚いた。レッスン料にはジュース代も入ってんの?」
「いいや。これは無料サービス」
「無料?」
井倉が持って来たグラスのオレンジジュースを見つめて知香はため息をついた。
「ふうん。世の中ってのも案外捨てたもんじゃないんだね」
そう言うと少女はストローでジュースをズッと音をさせて飲んだ。
「あは。やっぱり喉が渇いていたんだね。もう一杯飲む?」
「ううん。もういい。ごちそうさま」
「それで、知香ちゃんは何才?」
ハンスが訊いた。
「もうすぐ9才になるよ」
「それでピアノはどうして習おうと思ったの?」
「うーん。よくわかんない。リンダがピアノやりたいならいい先生がいるって言ったから、春からいろんな教室に行ったんだ。けど、今のところ、絵と水泳くらいしかハマるのなかったから……。今度ピアノもやってみようということになったの」
「あはは。正直だね。それじゃ、ハマるかどうかやってみようか?」
知香は普通の子どもとは少し違っていた。好奇心旺盛で行儀もあまりよくない。しかし、どこか憎めない愛らしさがある。そんな子どもだった。
30分のレッスンはあっと言う間に過ぎた。
「ふふ。どうだった?」
ハンスが訊いた。
「すごいや……」
子どもは目の前に置かれたバイエルの楽譜をぼうっと見つめて言った。
「みんなわかるよ。この音符も。隣の音符も、その隣の音符も……。まるで秘密の暗号みたい……。ねえ、そのうち、これもわかるようになる?」
知香はパラパラとページをめくるとたくさんの音符が並んでいる場所を指して言った。
「ああ。すぐにわかるようになる」
「そいじゃあ、酒場で流れてる曲とかも弾けるようになる?」
「酒場?」
「うん。おかしな曲もいっぱいあったけど、すごくきれいなのもあった。それも弾ける?」
「何の曲かはわからないけど、ピアノで弾けない曲なんかないよ」
「やった! それじゃ、わたし、ピアノ習う!」
「OK! それじゃあ、僕からもリンダにそう言っておくね」
「わかった。ありがと、ハンス。じゃなかった。ハンス先生」
「ハンスでいいよ。みんな、そう呼んでるからね」
そう言うと彼は笑ってバイエルの本を渡した。
「ところでハンス、どっか怪我してるんじゃない?」
「どうして?」
「血のにおいがしたから……」
知香は神妙な顔でそう言った。
「……そんなことないよ。どこも何ともない」
「ふうん」
彼女は真新しいレッスンバッグにバイエルを押し込むとペコリと頭を下げて言った。
「それじゃ、わたし帰る」
「ああ。よかったら私が車で送ってやろう」
黒木が言った。
「えーっ? 平気だよ」
子どもが言う。
「いや、もう夕方だし、あの辺りは少し物騒だからね。女の子一人では危ないよ」
「そんなこと言って、おじちゃんの方こそ怪しくない?」
知香に言われて教授は参ったなと言って笑った。
「大丈夫。黒木さんは大学で教えていたすごい先生なんだよ」
ハンスの言葉に知香が鼻を鳴らす。
「先生ってのが一番いやらしいって聞くよ。普段固い職業だけにストレスがたまりやすいんだってさ」
あまりにませた言い方に大人達が笑いだす。
「知香ちゃん、すごいこと知ってるんだね。確かにそうかもしれないけど、黒木さんは大丈夫。僕が保障するから……」
「ハンスは来られないの?」
「ごめん。僕は車の運転できないんだ。それに、このあともレッスンがあるんです」
「なあんだ。そいじゃしかたがないね。黒木のおじちゃんでいいよ。ありがと」
そうして、二人は家をあとにした。
「あの子、どういう子なんですか?」
井倉が訊いた。
「僕もよくは知らないけど、リンダ達が親から虐待を受けていた子どもを保護して預かったって聞いたよ」
「そうですか。それであの子……」
井倉はそれを聞いて涙が出そうになった。
(小さくても辛い目に合っている子がいるんだ。それから比べたら、僕なんか……)
あの子にはやさしくしてやろうと井倉は思った。
「ところで、先生、ほんとにどこも何ともないですか?」
「あは。井倉君まで何を言い出すですか? 僕は元気ですよ」
「それならいいんですけど、さっき、シャツに血が付いていたような気がしたので……」
ハンスは軽く息を吐いて言った。
「目ざといですね。でも、大したことじゃありません。今日の獲物はやけにしぶとかったんです。でも、何とかなりましたから……」
「獲物? 釣りとか、狩りとか、そういうことですか?」
井倉が首を傾げながら訊いた。
「まあ、狩りといった方が近いかな? けど、君は気にしなくていいですよ」
そう言うとハンスは階段を上って行ってしまった。
「気にしなくていいと言われても……」
リビングでは興奮した猫達が走り回っていた。
夜には3人の学生とYUMIのレッスンをした。すべては順調に終わった。
(けど、彩香さん……本当に大丈夫だろうか?)
井倉はそれが気になっていた。
(おじさん……。昔はあんな風じゃなかったのに……)
幼い時、井倉は彩香の家の近所に住んでいた。二人はよく一緒に遊んでいたのだ。
――優介君、いつも彩香と遊んでくれてありがとう
その頃から仕事が忙しくて、滅多に家にはいなかったが、時々会うと、いつもやさしくしてくれた。
――彩香は君のことが好きなんじゃないかな?
――え? だって、彩香ちゃんはぼくのこと泣き虫だから嫌いって言ってました
――そうかい? でも、私には君のことばかり話すんだよ。だから、きっと……
(おじちゃん……)
――いつまでも彩香と仲良くしてやってくれるかい?
(いつまでも……)
――大学で娘の周りをうろついていたそうだね? どうせろくでもないことを……
(違う! 僕は彩香さんのことを真剣に……)
――娘には将来有望な若者と見合いをさせて……。それが親心というものだろう
(わかっています。彩香さんは、僕にとっては手の届かない薔薇の花だって……でも……)
一人、個室に戻ると涙が溢れた。壁の向こうには彼女がいる。廊下に出てドアをノックすればいつでも会える。しかし、それはあまりにも遠く思えた。同じ家に住み、同じ空気を呼吸していたとしても、現実という越えられない壁は、確かに存在するのだ。
――美樹とは結婚を目指してるんです
(ハンス先生は、どうして平気でいられるんだろう?)
――ハンスのことは好きよ。でも……
(そんなの……僕にはとても耐えられない……)
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